ふと気がつくと、荒川先生がスマホを取り出している。
「ごめんなさい」
あわてた様子で部室を出ていく。緊張した様子だったので、部員たちは顔を見合わせた。
部室の前の廊下。荒川先生はスマホを手に、思わず口に手を当てていた。 lineには「田辺成一」の名前があった。<ご無沙汰しています。彩良のことで重要なお話があります。また今度>
荒川先生はスマホをしまった。田辺成一からの突然のlineが、荒川先生の心をかき乱していた。
(今、思うと彩良さんって、悠ちゃんを通じて私や朝井先輩に近づき、私たちの研究について調べてたんじゃないだろうか? 防衛大学研究所の田辺さんと結婚したのには驚いたけれど、もしかしたら何か調べるためだったんじゃないだろうか? 突然の失踪も、その調査が終わったからじゃないんだろうか?)
ずっと荒川先生の心に渦巻く疑惑。そして田辺からのline。
(彩良さんって、どこかの国のスパイだったんじゃないだろうか?)
荒川先生が現実に戻ったのは、生徒たちからの呼びかけだった。
「先生、今度の夜間観測の打ち合わせするんですけど」
「今、行くから」荒川先生はあわてて部員たちの方に戻った。部員たちに説明を始める。だが高蔵彩良への疑惑は、ずっと荒川先生の心に残ったままだった。
悠馬がウサギ小屋に着いたとき、飛鳥は、制服のブラウスとスカートの上からビニール製の分厚いコートを着て、ウサギ小屋の掃除のまっ最中だった。悠馬もすぐに制服のブレザーを脱ぎ、隣接されたロッカーからビニールコートを取り出した。 このコートは、体操服の上から着る方が作業には便利なのだが、一々着替えるのが面倒なので制服の上から着ていたのである。 飛鳥は飼育委員。飼育委員の主な仕事は、ウサギ小屋の管理。飼育しているウサギは、生物の授業で使われるほか、幼稚園や保育園、小学校へ貸し出したり、学園祭で子ども向けの催し物の主役となった。毎日の放課後、飼育委員が交代でウサギ小屋の清掃、エサや水の交換を行う。今日は一年特進クラスの担当だった。 悠馬がウサギ小屋に入ると、五羽のウサギが悠馬の足元にまとわりついてきた。悠馬はウサギたちの人気者のようである。 「いつも御免ね。手伝ってもらって」 「大丈夫だって。ふたりなら早く終わるし……」 悠馬は恥ずかしそうに横を向いた。小柄で大人しそうな表情。クラス委員としての威厳なんて百パーセントない。だいたいクラス委員というのは、言葉を裏返せば「クラスの雑用係」である。 「クラス委員って大変でしょう」 「別に……」 そう答えて首を左右に振ったが、説得力なんて百パーセントない。「クラス委員、何してる!」 「クラス委員! 早くしろよ」 「おーい、クラス委員!」 クラスルームにいるとき、あちこちから悠馬を呼ぶ声が聞こえるのを、飛鳥はいつも悲しい顏で聞いていた。「本当は私がやるはずだったのに……」
それは四月中旬のこと。いつものように授業が終了。悠馬は北門、通称、裏門の近くにあるウサギ小屋に行くため、立ち上がった。飼育委員の遠山飛鳥を手伝いうためである。飛鳥の姿はもう一年特進クラスの教室にはなかった。 廊下を歩いていると、「おい、クラス委員」 後ろからクライメイトの村雨龍の声がした。悠馬は立ち止って振り返る。龍とクラスメイトの神宮寺真宮子が立っていた。 龍の父は流通の大手チェーン「ハピー」の社長で、PTA会長。兄の春樹は二年生で生徒会会長。兄弟ともに女子の人気も抜群のイケメン。ただし女子のいないところでは、冷たい笑いを浮かべ、残忍で残酷なヒールのキャラに変身する。真宮子はロングヘアーに知的な表情の美人。クラスの女子のリーダー格。「掃除当番だけどな……」 一年の教室のある二階のトイレ掃除は、全クラスの生徒が交代ですることになっていた。今日は特進クラスの村雨龍のはずだった。「大事な用があるから替わってくれ」 それだけ言うと、サッサと真宮子と一緒に通り過ぎて行った。「地味」「陰キャラ」と云われる悠馬とは、話をする時間がもったいないという態度だった。 歩きながら真宮子に話しかける。「あいつはウサギ小屋とかトイレの掃除するために生まれて来たんだよ」 バカにしたような口調が、悠馬の耳にも聞こえてきたが、知らないふりをしていた。 「雑用」というものは、会社でも学校でも、頼まれたらイヤとは云えない人間がさせられるものである。読者の皆さんもご存知の事実。 「クラス委員」というのは、場合によっては何でもやらされる「雑用係」となる。 今の悠馬がそうだった。 トイレ掃除は、今までに何度もさせられていた。すぐにトイレに直行し、手際よく丁寧に掃除をすませ、廊下に出た。早く飛鳥のいる「ウサギ小屋」に行かなければ……。
キラーリ公主は空のグラスを侍女に返した。思いっきり深呼吸すると、白く細い両腕が水晶の輝きを見せる。「私、若いからね。威張ってる年寄り、大キライなんだ。だけど分かるでしょう。先住民族を手厚く保護していれば、人道的指導者と銀河連邦で支持を集められるから何とか我慢してたけど……。今なら、あの女も高齢だから、空気のない場所にヨダレを垂らしながらフラフラ出かけ窒息死したと云ったって、銀河連邦の人たちは納得するよね。」 キラーリ公主はそう言うと、二杯目の果実酒をあおった。酒のせいなのか、陽気にスキップを繰り返す。「まだあるじゃん。老衰で死亡したことにも出来る」 キラーリ公主の言葉に、エブリー・スタインが身を乗り出す。「姉上、ではいよいよやるんですか?」「ただひとつ、私にも分からないことがある。短期間で冥王星と金星を滅ぼしたというあの女のパワー。出来ればまずそれを突き止めたい。アマンの希望、前向きに考えておこう」「冥王星と金星を滅亡させたことは聞いています。しかしどうやって……」 キラーリ公主が大きく首を振った。「分かんなーい」 そう言って肩をすくめた。「だってみんな死んじゃったから。女や子どもまでね。教えてくれる人間はひとりもいないワケ」 ムーン・ラット・キッス。月の先住民族、ムーン・ラット族の元女王で最後の生き残り。月世界セレネイ王国で手厚く保護されている女性。 そしてひそかにその生命《いのち》を狙われている女性。 地球に向かった彼女を巡って、どんな事件が起きるのだろうか?
純白のロングドレスに包まれると、キラーリ公主はまさしく月世界セレネイ王国の象徴である。ドレスを着たキラーリ公主が、自信に満ちた大きな瞳で空を見上げる。 彼女さえ信じていればきっと大丈夫という大きな信頼感を国民に与えてくれる。この信頼感があるからこそ、コンサートで熱唱し国民とハイタッチし、子どもたちとゲームをして遊ぶ彼女の姿が一層親しみやすく魅力あふれる姿に見えるのだ。 キラーリ公主がたくさんの子どもに囲まれ、ひとりひとりとハイタッチしながら、原っぱを進んでいく。 銀河連邦の各惑星で放映されるプロモーション用の立体映像である。 キラーリ公主はベッドの上にうつぶせになり、両手に顎を乗せ、冷たい表情でプロモーション映像を見つめている。 ベッドのそばには、スーツ姿の中年男性が控えている。その隣ではエブリー・スタインが、デザイナーと共に新しいタキシードの製作中である。 「セレネイ王国は銀河連邦の発展に貢献します」 キラーリ公主の呼びかけが流れてプロモーション映像が終わる。 キラーリ公主があくびをかみ殺している。スーツ姿の男性、サプライ宣伝相が恐縮した様子で呼びかける。「いかがでしょう」 「このプロモーション動画で銀河連邦代表理事に選ばれると思う?」 サプライ宣伝相は返事も出来ずにうつむく。「あなたが選ばれると思ってるなら、それでいいけど」 キラーリ公主の言葉は背筋が寒くなるほど冷たかった。「ただサ。一生懸命やったけどダメでしたはやめてね。責任の取り方は色々あると思うけど、私は押しつけはしないから」 サプライ宣伝相は恐縮して立ち去る。エブリー・スタインは、ベッドの上の姉に話しかけた。「アマンからは何と?」 キラーリ公主がベッドの上に起き上がった。「ムーン・ラット・キッスはサライを脅して、何年間かに亘って勝手に彼女から地球の情報を得ていた。サライを脅して、移動望遠鏡を使って勝手に地球観測をしていた。どちらも我々の星では重大犯罪になる。サライがそれを暴露するのを恐れ、口を封じるため勝手に処刑を進めた。たぶんアマンの推理当たってると思う」 キラーリ公主がベッドから離れる。侍女から「ムーン・リバー」と呼ばれる果実酒の入ったグラスを受け取り、口をつけた。「私たちのお陰で贅沢してるのにサ、何も感謝もしないあの年寄りはね、三年前は別
「このムーン・ラット・キッス。短期間で冥王星と金星を滅亡させ、死の星に変えたムーン・ラット族の女王だ。この星もそうなりたいのか」 ムーン・ラット・キッスの叫びが終わるのを待たず、アマンの剣が風を切って一直線に進む。「あっ」 風は風のままに、アマンの剣は空を貫く。アマンの前には、黒いガウンもベールもない。 一瞬でムーン・ラット・キッスはいずこかへ消えた。緊張の表情で、あたりを見回すアマン。 客席の観衆は恐怖のあまり、ついにスタジアムから飛び出していく。先を争ってあちこちで怒号が聞こえる。「私は地球へ行く」 ステージでただひとり、無人となった客席に囲まれるアマン。人々の叫びが遠ざかっていく。血の香りが新たにアマンを包み込む。 空の彼方より高らかな叫びがステージに下りてきてた。声の主、ムーン・ラット・キッスがどこにいるのかは、全く分からない。「よけいなことに関わっている暇はない。アマンよ。月の先住民族、ムーン・ラット族の女王、そしてセレネイ王国の非常勤顧問である私への反逆罪については、今回は見逃してやる。」 ムーン・ラット・キッスが憎々しげな言葉を投げつけてくる。「いずれお前とは決着をつけよう。いざさらば」 声が一気に遠くなり、そのまま空に吸い込まれて消えた。ムーン・ラット・キッスの声は二度と聞こえなかった。
闇の中に悲鳴と不気味な咆哮が響きわたる。さすがのアマンも、何が起きているのか、全く何も掴めずにいた。 ウオオオオーーーーン 謎の咆哮が闇に吸い込まれていった。後には逃げ回る人々の助けを求める叫びだけが残った。 一体、あの咆哮は何だったのか? やがてステージを包んでいる闇がだんだんと薄れていった。死刑を見物に来たら自分が死にそうな恐怖に遭遇、大声で泣き叫ぶ人々のぶざまな様子がハッキリと見えてきた。 そして元のように、キラキラと明るい星空に包まれたスタジアムの光景があった。 星空の照明の下、アマンは茫然とステージに立ち尽くしていた。 白いステージが完全に消えていた。ステージ全体が、どす黒い血の絵の具で覆われている。客席も血の飛沫で覆われ、手足や衣装に血のついたことに気づいた観客が再び悲鳴をあげている。 血の海の中、赤い物体がふたつ転がっていた。 アマンはハッとして、ふたつの物体のそばに駆け寄る。血まみれになっていたが、それが何であるかすぐに分かった。 血で赤くなったサライとリルの母娘の頭部だった。首の付け根から下は、ステージを囲む溝の中に横たわっていた。 サライは目を大きく開けて、アマンを見つめていた。何かを話したそうな表情だった。だが猿轡の奥から、うめき声が聞こえることはなかった。リルは恐怖に怯えた表情で、口を大きく開けていた。 最後に一体、何を見たのだろうか?「処刑は滞りなく終わった」 背後で声がした。「ご苦労だった」 アマンはムーン・ラット・キッスと再び向かい合った。「あなたの仕業ですね」 ムーン・ラット・キッスから返事はない。「これを見て何も感じないあなたを私は許しません」 アマンは右手の剣先を突きつける。剣先の一メートル先には、ムーン・ラット・キッスの喉元がある。「ただの職業軍人が、月の先住民族、ムーン・ラット族の最後の生き残り。そしてセレネイ王国非常勤顧問の私に挑戦するつもりか?」 ムーン・ラット・キッスが小さく笑った。「悪いが無理だろうな」 アマンは負けない。「軍人である前に、私は人間です。権力を振りかざし、好き勝手に振る舞い、自分に都合よく他人を利用し、そして生命《いのち》と幸せを平気で奪うあなたを、人間として許せません」 アマンは剣を構えたまま、一歩前に出る。剣先はム